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『現代詩文庫 寺山修司詩集』──「過去」はExperience経験かそれともStory物語か──「さらばハイセイコー」に絡めて

どうもこんばんは、昨晩は一周年記念と称してかねかねとうるさい記事をアップしまして、それほど多くの人に読まれているわけではないけれども、なんというか不思議な高揚を感じる次第……変態も行くとこまで行くと訳が分からんくなってまいりますな。今日はいつも通りローラ―に乗ろうと思っていたのですが、カリスマホスト「ローランド」の魅力にやられてテレビの前に釘付け……仕方がないのでタバタクランチでふらふらになりながらまだ動く脚でタバタスクワット、もう満身創痍なんだ……

今日は久しぶりに真面目なエントリーです。どーでもいーわ、と思った方はブラウザバックを決める前にwiggleやAmazonで買い物でもしましょう(ダイレクトマーケティング)

最近は詩集にはまっている、といっぱしの文学青年気どっていましたが、やはり読んでみると中々面白くなってくるのが不思議なもの。今回は寺山修司の詩集を読んでいました。何故寺山修司か、私がたびたびこのブログの中で過去に引きずられる感覚から逃れるため、或いはローラーに乗っている間の景気づけとして心の中で、時としては声に出す「ふりむくな、ふりむくな、後ろには夢がない(寺山修司 さらばハイセイコーより)」が気になってしかたないからです。あれ自体は「競馬場への望郷」に収録されていますが……(こないだ借りてきた)。

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この詩集の、純粋に「詩集」である部分で寺山修司が言わんとしていることはいっとう理解できない、しかし、そこには趣を感じる。短歌にも、詩にも「意味が分からない」という空虚な空間の中にある一定の揺らぎのような「情念」が感じ取れるが、はっきりとそれを自覚することはなかなか難しい、文学的デペイズマンと言ったらよいだろうか、解剖台の上でミシンと蝙蝠傘とが不意に出会ってしまうときのような美しさの中で全てが行われているのだ。故に一見さんの私では「理解」まで及ばなかった。

しかし、この詩集の最後、評論・自伝の部分に収められた「歴史」に関しては十分に共感し、理解することが可能だった。ここで論じられているのはジェームズ・ボールドウィンの本の中の「過去」に「ストーリー」と訳がつけられていたことへの違和感に端を発する「思い出」の問題だ。

ここで寺山修司は二つの「過去」を想起する、Experience「経験、可能性」としての「過去」そしてStory「物語、思い出」としての「過去」の二つだ。しかし、彼はExperienceは未来でしかありえないことだと看破し、論を進めていく、あらゆる歴史はストーリーであり、思い出なのだ、と。

思い出という言葉は科学を裏切り、そして個人的な蓄積でありながら、疎外された人間にとっては失地回復のための「緑の土地」になり得るものであると主張されている。これにはいつもの露悪趣味と通じる部分が大きい、と嘆息したものだ。“時は陶酔だ。「のんびりとした郷愁を抱くかに見えるあれらの頑丈な船」(ボードレール)に乗って、私たちは自分の過去Storyを、添削しにもどることが可能なものなのだろうか”と問いかけられた私は「残念ながら、答えは“否”だ」と泣きながら答えるしかない。

タイムマシンが出来たら、いくらでも添削しに行くつもりだ。大事なところは外さなかったが、小問集合を間違えすぎて赤点になってしまった答案を直しに行こうとすることになんの不自然さも感じることは出来ない。一般的な人生における配点の高い問題(私の場合は主に受験だが)は外さなかったが、語句個人的な──しかし、のちに大きな問題となり得る──小問ははずしてばかりの人生だ。こう書いていると受験生だった時の模試の結果を思い出す、長文問題はほぼ全問正解、文法とアクセントは一ケタ、僅か二十年足らずの人生でさえそうなのだから、これからもっとたくさんの小さなミスを積み重ねていくことだろう。

“私は、あなたのブルースの「あなた」の一声ごとに、刻まれてゆく思い出が、現実を告発してやまないことによって、破滅的で計算された錯乱に誘い込まれてゆく。私は、自分が思い出から醒めて、エクスペリエンスする者に変わろうと思い続ける。だが、それは私の過去を経験として認識することではない。様々な事物のあいだを通り抜けてきた三十年間を、現実原則と空想的事実とに分類してみることではない。私にとっては、現実の日常生活を告発し、醒まそうとするときにだけ思い出の実存性が意味をもってあらわれてくるのである。幸福論は、その思い出の実存性によって生皮を剥がれる。「手を触れればその正体を現す灰で作られた見事な果実や女(アンリ・ルフェーブル)」としての幸福をもう一度よみがえらせようとして矢吹健は歌っているのだ”

このように語る寺山修司にとって「幸福論」は現実の日常生活の中に生じる「思い出」の感覚によって損なわれてしまうもののように捉えられている。我々が保持し得る「幸福論」よりも「思い出」の方がはるかに「幸福」としての度合いが大きいのだろう。現状がよほどよくない限り、いつだって思い出は美しい。ヨハネの黙示録の封印は七、対置されたあなたのブルースで数えられる「あなた」は二十四、黙示録的ではないものの“私たちもまた個人的な思い出などは封印してしまうことによって、過去と現在との連続性を歴史の中に生かしている”のだ。いつまでも「緑の土地」に焦がれてばかりはいられない、そう分かっていながら、なおも反省せずにいられない小生のような人間に対して、寺山修司はこう、鋭い警句を突き付けてくる。

“歴史ではない、思い出なのだ──と言って、思い出の革命性を説いて回ることは可能かどうか私には自信が持てない。私は「歴史家が古い世界の解体を導いた要因が解明できれば、それだけでいかにして新世界が生まれたかの説明を自動的に与えると思い込んできた間違い(バラグラフ)」と同じように、過ぎ去った思い出のあなた、あなたとの関係、その持続されなかった日常性の要因によって、私自身の愛、救済といったものを探り出そうとは思わない。それは「日記をつけるタイプの人間」だけに潜んでいる、反省への欲望にすぎない。ある種の人たちにとっては、反省することもまた快楽であるらしいのだが、反省は思い出を傷つける。快楽としての反省、そのおごりと会心癖は幸福論の最大の敵なのである“
小生の何がいけないかは、この一言に集約されていると言っても過言ではないだろう。結局何を懐古するにしても、そこに潜んでいるのは拙い反省への欲望であり、反省した、ということによって行動を伴わない会心をし続けることこそ、ここに存在する病癖だ。

と自分に対して強い言葉を使ってまた満足してしまいますなぁ……ほとほと弱い人間だと感じざるを得ません。いやぁ……反省ごっこ気持ちよすぎィ!! チッうるせーな、反省してま~す

この論考には小生が愛してやまない「さらばハイセイコー」を通底する一種の哲学がある、「経験」か「物語」か、そこに寺山修司は現実的な幸福論を破壊する「物語」としての思い出を配置しているのだ。

だから「ふりむくと」そこにはハイセイコーと時代を同じくした人々の小さな正解と小さなミスが散りばめられていて、喜怒哀楽の郷愁がメロディーを奏でており、そこに
ふりむくな
ふりむくな
後ろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても
全てのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる
思い切ることにしよう
ハイセイコーは
ただ数枚の馬券にすぎなかった
ハイセイコーは
ただひとレースの思い出にすぎなかった
ハイセイコーは
ただ三年間の連続ドラマにすぎなかった
ハイセイコーはむなしかったある日々の
代償にすぎなかったのだと
と、警句が入る。しかし、寺山修司自身もこの「思い出」から、逃れることの出来ない人間の弱い部分を知っているからこそ、最後の段落には

だが忘れようとしても
眼を閉じると
あの日のレースが見えてくる
耳をふさぐと
あの日の喝采の音が
聞こえてくるのだ

という一節が入るのだ。単なる詩的な効果ではない、単なる音や韻律の関係に囚われることない現実、そして一つの哲学がここに顕現している。この「歴史」という評論はその後も幸福論と犯罪の関係などに触れながら展開していくが、ここまでの思い出に関する言説については全く「さらばハイセイコー」と同様の構造を有している。双子か、或いは兄弟姉妹の関係にあるといっても良いだろう。
この「歴史」を読んだことによって「さらばハイセイコー」に対する理解は否応なく深まった。それだけでも私がこの本を手に取った価値というのは大いにあったと思う。

以下寺山修司「さらばハイセイコー」全文
ふりむくと
一人の少年工が立っている
彼はハイセイコーが勝つたび
うれしくて
カレーライスを三杯も食べた

ふりむくと
一人の失業者が立っている
彼はハイセイコーの馬券の配当で
病気の妻に
手鏡を買ってやった

ふりむくと
一人の車椅子の少女がいる
彼女はテレビのハイセイコーを見て
走ることの美しさを知った

ふりむくと
一人の酒場の女が立っている
彼女は五月二十七日のダービーの夜に
男に捨てられた

ふりむくと
一人の親不孝な運転手が立っている
彼はハイセイコーの配当で
おふくろをハワイへ
連れていってやると言いながら
とうとう約束を果たすことができなかった

ふりむくと
一人の人妻が立っている
彼女は夫にかくれて
ハイセイコーの馬券を買ったことが
立った一度の不貞なのだった

ふりむくと
一人のピアニストが立っている
彼はハイセイコーの生まれた三月六日に
自動車事故にあって
失明した

ふりむくと
一人の出前持ちが立っている
彼は生まれて始めてもらった月給で
ハイセイコーの写真を撮るために
カメラを買った

ふりむくと
大都会の師走の風の中に
まだ一度も新聞に名前の出たことのない
百万人のファンが立っている
人生の大レースに
自分の出番を待っている彼らの
一番うしろから
せめて手を振って
別れのあいさつを送ってやろう

ハイセイコーよ
おまえのいなくなった広い師走の競馬場に
希望だけが取り残されて
風に吹かれているのだ

ふりむくと
一人の馬手が立っている
彼は馬小屋のワラを片付けながら
昔 世話したハイセイコーのことを
思い出している

ふりむくと
一人の非行少年が立っている
彼は少年院の檻の中で
ハイセイコーの強かった日のことを
みんなに話してやっている

ふりむくと
一人の四回戦ボーイが立っている
彼は一番強い馬は
ハイセイコーだと信じ
サンドバックにその写真を貼って
たたきつづけた

ふりむくと
一人のミス・トルコが立っている
彼女はハイセイコーの馬券の配当金で
新しいハンドバックを買って
ハイセイコーとネームを入れた

ふりむくと
一人の老人が立っている
彼はハイセイコーの馬券を買ってはずれ
やけ酒を飲んで
終電車の中で眠ってしまった

ふりむくと
一人の受験生が立っている
彼はハイセイコーから
挫折のない人生はないと
教えられた

ふりむくと
一人の騎手が立っている
かつてハイセイコーとともにレースに出走し
敗れて暗い日曜日の夜を
家族と口もきかずに過ごした

ふりむくと
一人の新聞売り子が立っている
彼の机のひき出しには
ハイセイコーのはずれ馬券が
今も入っている

もう誰も振り向く者はないだろう
うしろには暗い馬小屋があるだけで
そこにハイセイコーは
もういないのだから

ふりむくな
ふりむくな
後ろには夢がない

ハイセイコーがいなくなっても
全てのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる

思い切ることにしよう
ハイセイコーは

ただ数枚の馬券にすぎなかった
ハイセイコーは

ただひとレースの思い出にすぎなかった
ハイセイコーはただ三年間の連続ドラマにすぎなかった

ハイセイコーはむなしかったある日々の
代償にすぎなかったのだと

だが忘れようとしても
眼を閉じると
あの日のレースが見えてくる
耳をふさぐと
あの日の喝采の音が
聞こえてくるのだ

小生なんかが語ったらおこがましいと思われても仕方がありませんが、今回ばかりはかんにんしてつかぁさい。

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