「海街diary」──「生」の延長としての「死」──

えー、一昨日カンヌ映画祭是枝監督パルムドール受賞おめでとう記念でやっていた海街diary、なんとな~く、ゆるっと全部観ました。なにが言いたいのか、そしてどの層をターゲットにしたものなのかは小生がごときガキンチョには分かりませんでしたが、まぁ、安心して観られる映画でしたね。
ここから次の矢印まで女性は読み飛ばすことを推奨します、小生は女性の敵にはなりたくありません。


女優さんみんな可愛いし(樹木希林含む)、えぇ、僕は助平なので、エエんか? こんなスケベでエエんか? いやいや、アカンやろ! いやいやいやいやでも……これがカンヌでパルムドールを受賞した監督の映画か……(感服)って感じでした。冒頭から事後っぽいシーンだし、その後の姉妹の服装やらあれやこれややら、もう「エッチだねぇ……デュフフ」って言うしかありませんでした。小生のイチオシは高台から景色を覗くシーンですね、ちょうど画角的に姉妹全員の横顔と胸の辺りが映って「いい眺め~」って、それは小生の台詞にゴザルゥ!! 壮観なり……壮観なり……ってなりました。
小生は普段、広瀬すずちゃんあんまし好きじゃないんです、なんかこうセーカクが悪そうなイメージがつきまとっておったのですが、今回の映画はただただ「美少女やんけ!! 」って叫びたい衝動に駆られているだけ、事務所はこういう仕事とってきたらええねん!! とエセ関西弁が脳内で炸裂、いやー良いもんをみさしてもらいましたわ。綾瀬はるかは相変わらず可愛い、夏帆さんはよう知らんかったけど「うん、可愛い(syamu)」だし、長澤まさみさんはもうえちえちの塊みたいなもんで、全く大興奮の二時間少々でした。幾度となく前屈みですよ、ホント。
↑ここまでいつもと同様の盛大な前フリ
↓ここから真面目に
この映画について小生が感じ取ったのは、巧妙に仕組まれた「生」と「死」の対比であろう。三姉妹が四姉妹になる場面、そのきっかけは放蕩もののダメ親父の葬儀が発端となっており、その後も長女の幸のターミナルケアセンターへの配属、姉妹にとって身近な存在であった海猫食堂のおかみさんの死、そしてその葬儀とイキイキとした姉妹の描写の裏には(可視か、不可視かは無論ここでは問わない)常に様々な人物の「死」が付きまとっている。これは勿論監督自身が意図したことであり、ところどころで考察もなされていることではあるが(インタビュー等を参照)ここで小生はその事実を改めて強調しておきたいのである。腹違いの妹、父親、母親、家族、そういったごく大きく、かつ小さいスケールで描き出される日常というのは底抜けに明るく、良くも悪くも人気女優共演!! でありながら、作品としての「中身」の存在を疑わざるを得ない──心地の良い退屈さを帯びている──のだが、これについては(勿論作品自体の雰囲気は素晴らしい)全て一括りにした此岸を構成する出来事であり、それと対比された「彼岸」に属する出来事とともに俯瞰したときに作品の本質がこれでもかというほど明瞭にその姿を鑑賞する小生たちにまざまざと見せつけてくるのである。

四姉妹の明朗快活(夏帆さんのアホの子感満載の演技は最高だった)で、多少のすったもんだはあろうとも基本的には幸福それ以外のなにものでもない生活と繰り返される葬儀が織り成しているのは単なる「対比」ではない。むしろ「生の延長として存在する死」を観想させるものである。この姉妹の生活にだっていつかは終わりがやってくる、それぞれがそれぞれに新しい人生を持ち、家を離れていく、この映画では描かれなかった、あるいは描かなかった部分において、この映画版「海街diary」には終わりが存在している(ラストは極めて幸福で、これからも続くであろう幸福な場面にこれを暗示させるものがある)のだ。

しかし、その「終わり」はあくまでもこの「姉妹」と「鎌倉の家での生活」の「物語」としての一つのピリオドに過ぎない。真の終わりはそのずっと後で訪れるその「死」こそがこの「幸福な物語」の「終わり」として厳然として存在しているのである。そしてこのエントリーの冒頭で述べたサービスショット含む「性」をいやがおうにでも意識せざるを得ないシーンさえもがこの「終わり」として内在されたデストルドー(死の欲動)と対置されたリビドー(性・生の欲動)を強調する役割を十二分に果たしているのである。

というわけで、是枝裕和監督「海街diary」についてでした。