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小生と映画「レナードの朝」──人間の魂はどんな薬よりも強い──

  • 2018年6月22日
  • 2021年6月20日
  • 映画
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今日もいつもよりちょいと遅く家を出て、発表の資料集めとデザイン系の雑誌とSFマガジンの巡回を済ませてから映画を観て、油そば食べて、そのあと講義という完璧なムーヴを決め込んでウッキウキな金曜日です。

夜は「ファインディング・ドリー」あったしね(小学生)。圧倒的成長丸です。
「ゴースト/ニューヨークの幻」と「レナードの朝」で迷った結果、「レナードの朝」が勝ちまして、鑑賞してまいりました。以下感想を少々。

あらすじ

前の病院での研究が終わってプーになったので別の病院で研究職をもらおうと思って慢性神経病の専門病院へやってきたコミュ障のマルコム・セイヤー、慣れない臨床医としての生活のなか、彼ら慢性神経病患者たちには反射神経が残っていることを突き止め、他の医師たちに知らせるが、まったく取り合ってもらえない。

唯一手伝ってくれた看護婦のエレノアとともに調査を続け、彼らが惰眠性脳炎であると断定、聴覚、視覚、触覚などの感覚刺激によって患者の生気の回復に一定の成果をあげることに成功する。その後、セイヤーは患者の中でも最も症状が重篤で30年間一度も目を覚ましていなかったレナード・ロウの治療を考えるようになり、治験中の新薬L・ドーパの使用許諾を院長、そしてレナードの母から得る。少しずつ投与量を増やしていくセイヤー、しかしレナードは一向に目覚める様子がない。

そしてある夜、セイヤーが普段より多くL・ドーパを投与した、その夜、遂にレナードは30年という深い、深い眠りの帷から「覚醒」する。自分の意識を取り戻し、失われた30年間という時を思いながらも、少しずつ生活を取り戻していくレナード、そのうちL・ドーパが他の患者たちにも投与される、そしてこれもある夜、患者たちは「覚醒」する、自分の名前を口にするもの、地に足をつけて歩けることの喜びに浸るもの、自分の仲間の存在に気づくもの、彼らはそれぞれの新しい「朝」を迎えたのだ。そして、彼らは「生」の美しさに触れる。一方その頃にはほとんど常人と変わらない生活をしていたレナードは父親の見舞いに訪れていたポーラという女性に恋をする。その後度々病院で逢瀬を重ねる二人、レナードの母は「女なんて! 」と憤るが、仕方のないことである。レナードの恋心は募る一方で外出許可を出してもらえるように直訴するが、勿論却下される、意地でも外に出ようと強行突破を試みるレナード、既に薬の副作用としての凶暴化、そして筋肉の痙攣など、薬効の低下が兆候として現れるようになる。そして、彼は隔離病棟内で同じく隔離されたイカれポンチどもを強烈にアジテートし、ある一種反乱のようなものを起こすが、この頃既に薬効は切れ、自力での歩行すら難しくなりつつあった。周りの患者たちも彼の様子を見て、いずれ行く道なのだと不安を感じ始める、そんな中、セイヤーに対し、レナードは自らの身体を被験に用いる用にと提案し、すべてを記録するようにと言いつける。少しずつ動かなくなってゆく身体、それでもレナードはポーラの元に行くために、と精一杯めかしこんでいく。すでに病状は前とほとんど変わらなくなっていることを知っていて、ポーラに金輪際会わないことを告げる。握手をして去ろうとする彼の手をポーラは離さない、最後に一度、二人で踊り、そして別れてゆく。背中を見送るレナードの後ろ姿。その後、レナードだけでなく、他の患者も薬効が切れはじめ、最終的に全員元のように戻ってしまう、セイヤーは彼らを生き返らせ、また殺してしまった……と悲嘆に暮れるが、エレノアはそうでなかったことを告げる。そして、ラストシーン、セイヤーはエレノアを食事に誘う、人が苦手だった彼の圧倒的成長である。そしてポーラがレナードに本を読んでいるシーンなど、患者たちのその後が描かれて終わり。

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感想

小生はこの映画で泣いてしまった。勿論、ポーラとの最後のダンスのシーンである。動かない身体を無理矢理に動かし、髪をとかし、服を整え、少しでもいつもと同じように最後の別れを告げようとしたレナード、ポーラのことを好きだからこそ、よりみじめになっていくであろうわが身を見られたくない。愛している、そう言いたくても痙攣とわが身を恥じる思いで言い出せない、そうしてそのまま切り出してしまった別れに、ポーラは彼が一度でもやってみたい、と言ったダンスで応じる。こんなに感動的なシーンがあろうか、このダンスの間、彼は一度だって発作を起こしてはいない。嗚呼……小生の心は打ち震えた。これぞまさしく「愛」の力だ、そっとつなぎ合わせた手、腰に回したもう一方の手、二つの手、そして抱き合う形となった二人の間には、何一つとして彼らを遮るもののない世界が生まれた、ここにレナードの二度目の奇跡的な目覚めが生じている。一度目は生きた人間としての目覚め、そしてこれは、愛に生きる人間としての、彼の二度目の目覚めなのだ。そしてその目覚めの後、彼女を見送るレナードの沈黙は、ここに生じたもう一つの眠りであり、それに伴って、再び彼は人間としても、深い深い眠りにつく、その眠りは緩慢に訪れ、彼の心を苦しめたかもしれないが、その前のもう一つの目覚めによって、彼は救われたのではないだろうか、その目覚めがあったからこそ、彼はもう一度眠りにつくことが出来たのではないかと思う。
そしてもう一つ印象的だったのは、セイヤーの「目覚め」のシーンである。彼が目覚めるシーンに破必ず劇的な変化が訪れている、勿論意図されていることではあると思うが、起床としての目覚めだけでなく、彼にも訪れた人間としての「目覚め」としてラストで少しだけ描かれたエレノアとのシーンは、レナードの数奇な「生」との友情で結ばれた交流の中で気づかされた、もとい教えられたことを一層印象深くさせるものである。生きることの素晴らしさとは何か、レナードが深夜に語り続けたことの、その一遍が、彼の中に湧き上がり、そして彼自身を変えた。レナードの目覚めは同時にセイヤーの目覚めでもあったのだ。セイヤーは悔やんでいたが、レナードはその目覚めのなかで、多くの人に何かを伝えて回ったのだ、そこに彼の「目覚め」の本当の意味が現れてくる。邦題こそ「レナードの朝」だったが、原題はAwakeningsである。この「目覚め」が複数形であったのは何も患者だけを指しているわけではない、セイヤーとその周りの人々のことすらも指して、Sを付けた複数形なのだ。

総じて、何かと考えさせられる映画であった。レナード自身の感覚、患者たちにとっての失われたはずの時間、束の間の人間としての「生」そして再び訪れる眠り、自分がそうであったのなら、と考えると、やはり総毛だってしまう。人間が変わってゆくこと、そしてその変化を見続けること、自分自身が変わってゆくこと、恐ろしいまでのリアリティーが小生の胸を襲った。最近気づいたのだが、あまり変わっていないと思っていた小生自身にも変化は訪れていた。それについてはまたどこかで延べることにする、それでは……映画の感想としてはまとまっていないので、いつかまた書き直すかもしれない。ファインディング・ドリーみながらやったらこうもなります。

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