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寺山修司『競馬への望郷』──空想と現実の狭間、詩人と競馬──

  • 2018年12月6日
  • 2021年8月22日
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どうも、せんちゃんです。昨日、一昨日といやに生ぬるく、今日は嫌に寒い。身体がばかになりそうです。今朝は都営浅草線がへまをやらかしたせいで普段よか30分は早く家を出る羽目になりました。折からの雨でバスは満員、ストレスが一番アスリート(笑)には良くないのにたっぷりストレスでキチ◯イゲージ充填!! あああああぁぁぁぁあぉあああえ!!
さて、今日は先日の『寺山修司詩集』に続き、寺山修司シリーズ、今回は競馬エッセイにして小生が一番好きな詩である『さらばハイセイコー』が掲載されています。本当はそこだけ読もうと思って借りてきたのですが、思いの外中身が面白い、前回少し論じた時の詩人としての感覚をそのままに競馬を語る飄々としながらもどこかに哀愁や孤独感を漂わせる文体、空想と現実の狭間にいる競馬狂の仲間たち……面白い、というより趣深いものを読んでいるような感覚を覚える。そしてところどころで引用されるウィリアム・サローヤンの戯曲か、或いは詩の一節、男という生き物はどうあるべきか、どう生きているのか、繰り返されるサローヤンの言葉は競馬エッセイを一つの馬、騎手、男、女の『人生』へと昇華させている。だから読んでいて引き込まれるが、そこには手放しで喜べない現実が見え隠れする。
これを読んでいたら久しぶりに競馬をやりたくなってきた。中学生くらいまでは馬券を買う祖父に「これも一緒に買って」と番号と方式を書いた紙を渡していたものである。大きな勝負には尻込みするタイプなのでいつもワイドか枠連で買うのが小生の競馬であった。ガキんちょだてらに赤ペンを耳に挟み、スポーツ新聞の競馬欄と格闘する。距離適性、脚質、ヤネ(鞍上)枠、オッズ、予想屋、天候、真面目に考えようとも走るのは馬であるから、勝てるとは限らない、せいぜい小銭をもらってコロコロコミックを買う足しにするくらいのものであったが、いっぱしの大人の世界にいるような気分で中々気持ちが良かったのをよく覚えている。今の小生はどんな買い方になるだろうか、答えは決まっている。2-13ワイドで、或いは2枠と8枠で枠連だろう。三つ子の魂百まで、手堅い勝負しかしない癖は到底治りそうにない。
これを書いていて思ったが、自分がロードレースを好きになったのは至極当然なような気もする。ロードレースは競馬に似ている、脚質があり、逃げがあり、ゴール前の熾烈な争いがある、人馬一体のスピードと作戦の競いあい、愛馬が血の通った馬か、炭素繊維、アルミ、或いはその他の合金製の冷たく血の滾ったロードバイクか。馬群の動きとプロトンの有機的な連関関係。幾度となく脳裏に焼き付けてきたものが今別の形で小生を燃やしている。
小生はまだ到底レースに出られるような身体でもないし、チームにも所属していないが、レースに出るとしたらどうだろうか、最初の方はミスを恐れず飛び出してみるとは思うが、そのうち無駄に気づいてロングスプリントやスプリントにかけるようになりそうな気がする、そこまで脚が残っていればだが……
とかく物事を始めるのが遅い、というのが小生の悪い癖の一つである。寺山修司も言っている。「くやしい話だが、人生ではやり直しがきかない。出遅れたら追い込むしかないのだった」過去の「過去性」を強調し、現実を改変する手段は現実に向き合い未来にそれを求める他にない、というのがどうやら哲学の一つのようである、小生は少し耳が痛い。しかしサンテグジュペリの言葉を引用しつつ、こうも言っている「「人類が、最後に罹るのは、希望という病気である」と、希望にすがりつく、というのも人間の抱えた病癖の一つだ。
つまり、我々人間の大半は「希望の患者」と成り果てて追い込みをかける人生を送る、というどうしようもない現実を生きているのだろう。鞭を振るっても反応しない駄馬の我が身、追い込みはどこまで伸びるだろうか。
今回の記事はサローヤンの言葉と新たに小生の好きな詩の一つになった『さらばテンポイント』で締めさせて頂きたい。
男は、たえず都会、金、愛、危険、大洋、船、鉄道、馬などの夢にまきこまれる。しかし、眠っている間も、旅している間も、男は真実の行き先を知っている。行き先以外に行く所はみんな回り道だ。しかし、時間がつぶせるので、男は回り道がなつかしいのだ」
これには、しかし、の部分以下が別のバージョンもある。
回り道をなつかしがるのは、男が何者かに負けるときなのだ。
男の必要とするものは多くない。しかしそれは立派なものだ。そして、それらがなければ、魂もまた、荒野をさすらうことになってしまうのだ。
男の中で一番幸福なのは、運命を楽しめる男だ。ある日、突然、運命は汽車に乗ってやってきたりする。男は思い立ったらすぐにやらねばならない。運命と仲の良い友達になるために
男はかくのごとくあるべし、サローヤンの言葉は力強く、そして哀愁を漂わせている。これらの言葉が「寺山修司によって引用される」ことによってより強い響きを感じられるような気がするのは気のせいだろうか?
さらばテンポイント
もし朝が来たら
グリーングラスは霧の中で調教するつもりだった
こんどこそテンポイントに代わって
日本一のサラブレッドになるために
もし朝が来たら
印刷工の少年はテンポイント活字で
闘志の二字をひろうつもりだった
それをいつもポケットにいれて
よわい自分のはげましにするために
もし朝が来たら
カメラマンはきのう撮った写真を社へもってゆくつもりだった
テンポイントの
最後の元気な姿で紙面を飾るために
もし朝が来たら
老人は養老院を出て もう一度じぶんの仕事をさがしにゆくつもりだった
「苦しみは変わらない 変わるのは希望だけだ」 ということばのために
だが
朝はもう来ない
人はだれもテンポイントのいななきを
もう二度ときくことはできないのだ
さらば テンポイント
目をつぶると
何もかもが見える
ロンシャン競馬場の満員のスタンドの
喝采に送られて出てゆく
おまえの姿が
故郷の牧草の青草にいななく
おまえの姿が
そして
人生の空き地で聞いた
希望という名の汽笛のひびきが
だが
目をあけても
朝はもう来ない
テンポイントよ
おまえはもう
ただの思い出にすぎないのだ
さらば
さらば テンポイント
北の牧場には
きっと流れ星がよく似合うだろう
新潮社刊 「旅路の果て」 より
やはり「思い出」はただの「思い出」に過ぎないのだ、「もし朝がきたら……という言葉はやけに虚しく響く、さらば、さらば……繰り返される別れの言葉だけが、置き忘れてきた朝へのたった一つの解答になる。希望という病気に罹患したまま、生きること以上の美しさは、簡単には見つけられない。

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