今回の読書~ウェブ&サブカルに迫るディストピア、身体からの解放、そして死という現実~

どうも、せんちゃんです。

久しぶりに読書のお話、沢山読んではいるのですが、あまりまとめる時間が取れていませんでした。ただやっぱりアウトプットしないのは勿体ないですから、折角ブログもやっているわけですし、今回から書いていきます。

2週間に1回図書館に行って本を借りて帰るのが定番なので「今週」とか「今日」じゃなくて「今回の」読書なんですね。

「オクトローグ──酉島伝法作品集成──」新時代の奇才が描く「独創性しか感じられない」SF

今回借りた5冊

「ウェブに夢見るバカ~ネットで頭がいっぱいの人のための96章~」ニコラス・G・カー

著者のニコラス・G・カーがブログ黎明期の2005年から書きだめたものからの抜粋と、50の格言とエッセイ集、急速に進むIT化の正否を軽妙な口調で語る一冊、個人的にはすぐにポルノサイトネタを持ち出すところがツボだった。

「死なないでいる理由」鷲田清一

哲学者鷲田清一氏の「死」と「身体性」に関する論集、タイトルの答えを求めると肩透かしを食らうように出来ているが、思索の端緒としては非常に有用だと思う。テーマのわりに軽めに話が進行するため、嫌なところが無い。

「メディアミックス化する日本」大塚英志

サブカルチャーの評論で有名な大塚英志氏の東大で行ったゼミの要旨を文庫用に再構築した1冊。角川とドワンゴの合併から日本での「メディアミックス」の展開と物語消費論的に見た近代サブカルの粗製乱造化の原因について紐解く

「逆境を『アイデア』に変える企画術~崖っぷちからV字回復するための40の公式~」河西智彦

「ザップ・ガン」フィリップ・K・ディック

この2冊は上の3冊にハマりすぎて正直なところ読んでません。

感想とエッセイ・思索

割とテーマをそれぞれ外して「乱読」になるように選んだはずだったが、読み進めていくうちにそれぞれが繋がっていった。

「ウェブに夢見るバカ」でも危惧された所謂「WEB企業」の提供するサービスの問題が「メディアミックス化」に繋がり、それらの中での議論と「死」に関する所有と身体性に触れる感じで思索がまわった。いい読書になったと思う。

個別の本に関する感想はこれから読むかも知れない人々の興を削ぐためしないが、以下にエッセイというか思索というかを付記する。

web・サブカルのディストピア~「ビッグ・ブラザー」としての企業に管理されるクリエイティビティとアイデンティティー

──国家によって我々の行動・精神が管理されるディストピア的未来──という未来予測はジョージ・オーウェルが「1984年」を、或いはレイ・ブラッドベリが「華氏251度」を上梓して以来、我々の想像の及ぶところとなって久しい。

近年の「IT技術」の急速な発展によって、これらのディストピアがより身近に感じられるようになってきたこともあるだろう。実際ハヤカワ版の「1984年」には「近い将来現実になるかもしれません!」なんていう左翼的ユーモアの効いた帯が綺麗に巻かれていた(帯を書いたヤツのセンスのなさに脱帽だ!)。

しかし小生は、管理社会が成立するのであれば(既に成立しているかも知れない)国家によってではなく「企業」によってなされると考えるのが妥当だと思う。

「管理」と言っても、別に毎日監視される恐怖、密告に怯えるようなものではない。緩やかに、それと分からずに管理機構に取り込まれる。これが21世紀の「管理社会」のディストピアだ。

そういった意味ではもうこれは成っている、と言ってよいだろう。

世界的な企業となったGoogleの提供する諸々のサービスやら、議論され尽くして手垢まみれになったSNSなんかが象徴的なんじゃないかと思う。

インスタグラムで「映える」店・場所にこぞって行く、人気のインフルエンサーが着ている服を買う、コスメを使う。これはそういったマーケティング戦略を打っている企業に「乗っかっている」という状態であると同時に、発信源となっているサービス運営側の意図に「取り込まれた」状態である。コンテンツを生産することによってサービス自体を強化し、リコメンドに沿って消費を行う、この過程が既に循環しており、この中に取り込まれていることは言うまでもないだろう。

それと気づかぬ搾取や簒奪に肩まで浸かっているのが現代人だ(無論小生も含む、Googleがないと最早生活が成り立たない!)

我々個人の消費とその発信によって形作られる「外形」だけの問題ではない、ことは我々自身の「クリエイティビティ」に及んでいる。

大塚英志氏が「メディアミックス化する日本」で、危惧したのは企業によって我々個々人の「クリエイティビティ」が管理される未来だった。ユーザーが生み出すコンテンツのメディアミックス、活用によって利益を得るにも関わらず、自分は権利的に責任を負わない企業の杜撰さと相まって「クリエイター」であると同時に「消費者」である我々が一方的に搾取・略取されるディストピアを彼は角川とドワンゴの合併に見た。

幸か不幸か、Youtubeがさらにデカい面をするようになったせいで「ニコニコ動画」をサブスクしているヤツの方が珍しい時代になったため、それほど大きな問題にはなっていないのだが、これは一度考えるべき問題だと思う。

もし「クリエイティビティのディストピア」が成立するならば、そこで生産されたコンテンツには魂が宿らなくなるだろう。売れ線のコンテンツを作って、流行らせ、それを企業が回収し、さらにその変種を生み出す、というロールモデルにコンテンツ側が規制を受ける。

ここ最近の流行りのサブカル的なコンテンツは既にこの軸に乗っているように思われる。粗製濫造される「異世界系」ないしは「なろう系」の作品群は既にディストピア側と言っていい。

大塚英志氏の「物語消費論」或いは東浩紀氏の「データベース理論」にずっぽりハマって抜け出せなくなった「クリエイティビティ」に明日があるようには到底思えない。

身体からの解放~精神と機能の拡張~

身体からの解放、というのは時代を問わず論じられてきたテーマだ。

古くから多くの賢人がコレをどのように行うかを考え、多くの宗教家がコレを謳って信徒を集めてきた。我々の存在と切っても切れないものであるはずなのに、何故ここまで身体は倦まれなければならないのか、些か不憫にならんでもないが、小生も肉体はそれほど好きではないことに気づいた。

精神は肉体に隷属している、この我々を縛る軛、牢獄である肉体から精神を解放するにはどうしたらよいのだろうか、少しこれにも触れてみたい。

機能拡張による解放

精神的な機能の拡張によって、身体から疑似的に精神を開放する。という考え方は周期的に流行する、1960年代には「ニューエイジ」がスピリチュアルなものから始まり、ヒッピーのムーヴメントと混ざりあって進行していった。

1990年代からはコンピュータがドラッグや瞑想の代わりに、我々の精神を開放するツールとして活用されるようになる、という考えが一般的になった。

この潮流は2000年代中盤の「ウェブ2.0」を契機に主流となっていく。

余談だが、私はこの頃の論壇や本のタイトルの「○○2.0(ここの数字は2桁まで行かないがとかく大きくなりがちだ)」が嫌いだ。既存のものを、さも「アップデート」したかのように語るのが何故かは分からないが癪に障る。内容は良くても、タイトルだけ見てイライラする、どうせ変種でしかないモノに「2.0」とつければ見栄えが良くなるだけだろ! と感じてしまうのだろうか。

まぁいい、それでは、コンピュータは私たちの精神を解放してくれただろうか?

答えは「否」ではない、と思う。

こうして小生自身surfaceに向かって打鍵音を響かせている間は、確かに解放されているような気がする。ウェブで世界と繋がった電子の海を前にして、最も壮大で慎み深い自慰を行っているのだから。

エンターキーと同時に、私の言葉が、思索が盛大な射精の渦となって発射される瞬間の悦楽は「解放」以外の何物でもないように思われる。

だが、これは本質的に肉体から逃れたことに繋がるのだろうか、ということをもう一度よく考えてみると、そうではない。精神の領域が展延し、拡大したのみに過ぎない、と小生は思う。

肉体と繋がったまま、外へ外へと精神が拡張されていくこの疑似的な解放がコンピュータ、ひいてはインターネットによって得られる束の間の効用だと言えるだろう。結局機能が拡張されただけなのだ。

マクルーハンは自転車や衣服、ラジオといったメディアが身体機能の「拡張」であると述べたが、これもそれに過ぎないだろう、と考えるのは些か浅慮だろうか。

「死」という解放

もう一つ挙げられる解放の形としては、やはり肉体そのものの動きを止めてしまうこととしての「死」があると思う。

鷲田先生は小生に「死なないでいる理由」は教えてくれなかったが、生死の問題に「所有論」を持ち込むための視座をくれた、というか小生が勝手に感じ取った。

精神が肉体に隷属せざるを得ない理由、檻に入っていなければならない理由として、小生は「精神が肉体の完全な支配」に成功していないことを挙げたい。

我々が幾ら心で念じたって腹痛は収まらない、精々呼吸で痛みを和らげることが出来るくらいだ。そして汗をかくのも止められない、シミが出来たらどうすんじゃい、と焦れば焦るほど汗が出てくる。もちろん心臓も自分じゃ止めることが出来ない。肉体は意のままにはならない。

他の事はなんでも、あれほど自由にこなせる精神が身体1つ自由に出来ない、というこのたった1つの、そして圧倒的な敗北を持って、肉体は精神を「所有」することに成功したと言っていいだろう。

この「所有論」に基づくと「死」が、それも「自殺」が身体の自己所有の究極系であると言えるだろう。

所有⇔被所有という主従の関係の倒錯であり、意図的な転覆が小生の考える「自殺」である。「死」そのものを制する、ことによってこそ、完璧な身体の所有は成立し、それは自殺によってしかなされない、という同語反復が成立するのだ。

では、「死なないでいる理由」とは何か?

小生は「死への恐怖」コレだけだと考えている。

生に意味を見出している現代人がどれだけいるだろうか、自分の鐘(心臓)が自分のためだけに鳴っていると言えるだろうか、仕事に追われ、家庭に追われ、生存の条件こそ満たされているが、心は死んでいる。だけど「死ぬ気にはならない」から生きている。

学生の分際で何を偉そうに、と思われるかも知れないが、小生も後半年したらきっとそうなるだろう。日々の仕事に追われ、そこに充実感を見いだせなくなった時、生と死の極めて曖昧な境界線に立つことになるのは目に見えている。

 

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