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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』の感想と評価──それは、紙が自然発火する温度──

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こんばんは、今日は学科で両国くんだりまで出かけていって「発掘された日本列島」とやらを見てきました。

時間をかけて行ったわりに展示はショボいし、その他の時間で適当に見ておくように言われていた江戸東京博物館自体も

「小中学生の時分なら楽しめた(小生談)」

「デートとかで興味のない場所に連れてこられた女の子の気分(友人談)」

「えっ? 入館料いるの? 財布持ってきてないんだけど(友人談)」

「入り口の小学生の一団に混ざれば良かった(小生談)」

「子供を連れてくるんなら良さそう(小生談)」

「ふざけんな、なんのために毎年高い学費払ってんだ! 一講義換算で2000 -3000円だぞ!(友人談)」と散々な(半分は入館料を払えと言われたことに対する怒りですが)感想を持った一日でした。

この間借りてきた二冊の本「ウィトゲンシュタイン入門」と「華氏451度」のうちの後者を先に読了しましたので、一つ感想をば(ウィトゲンシュタイン入門は行きつ戻りつ、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がらないと全容が掴めません)。

華氏451度とレイ・ブラッドベリ

さて、この「華氏451度」ですが、「火星年代記」「刺青の男」で知られるSF、ミステリ作家、詩人であるレイ・ブラッドベリの作品です。

ヌーベルヴァーグの最中に映画化もなされているこの作品ですが、1953年に書かれたとは思えないほどの驚くべき先駆性、示唆性を持った現代への警句であると言って差し支えないでしょう。

文体と表現の叙情的、詩的な美しさと場面のダイナミックさ、そして時にスタティックな展開、一秒たりとも文章から目を離したくなくなるような圧倒的な魅力に包まれています、今回はこれを元に小生の主観でお話をしていきましょう。

あらすじ

政府によってありとあらゆる「本」は「禁書」とされ、人々は超小型ラジオ「海の貝」や「テレビ室」といったメディアを与えられるがままに享受し、社会には快楽、刺激のみをただただ消費する民衆が溢れた。

主人公のガイ・モンターグはそんな社会を「焚書官」として支える一人、本を持っている、という密告があればすぐに駆けつけ、手っ取り早く家屋、時には住人ごと全部燃やして帰ってくる。

そんな生活の中、という少女と出会い、彼は自らの生活に違和感を覚え、そして本来燃やさねばならぬ本を、また一冊、持ち出してしまう。

整理のつかぬ気持ちのために彼は以前会ったことのある本を所有する老人に電話し、これからなすべきことを確認する。その後、持ち帰った本を妻と一緒に読むのだが、妻はこれに激しく反発、逆に焚書官を呼ばれる騒ぎとなってしまう。

上司で署長の男を火炎噴射器で焼き殺したモンターグは追われる身となり……

現代の病に対する示唆

「あら」すじじゃなくなっちまったような気もしますが、仕方がありません。
この作品を読んだ時、小生は困惑しました。「海の貝」「テレビ室」といった大衆に対する指向性を持ち、同時に思考能力を奪ってゆく悪魔のメディア、それを享受してさえいられれば「幸福」という思考停止によってもたらされるディストピアにです。

部屋の三面を巨大なスクリーンと化すだけでは飽きたらず、もう一枚追加すればもっと楽しい、と少ないサラリーのモンターグにせがむ妻ミルドレッド、地下鉄内に流れる歯磨き粉のコマーシャルに合わせて足踏みし、うっすら口まで動かすに至った乗客、短縮に圧縮、極限まで切り詰められ、最早コンテクストを喪失し、単なる音と光の刺激と成り果てたかつてのドラマ、演劇、スクリーンに現れる「家族」との団欒を何よりの楽しみとする民衆、子供の世話を放棄し、テレビ室に放り込んでスイッチを入れるだけで済むと考える母親、焚書官の仕事を全うすべきだと諭す上司のビーティ、全ての事象があってはならないほどのリアリティと違和感で迫ってきます。

しかし、この小説の持っている「示唆性」はここに現れてくるのです、この「違和感」は我々現代を生きる日本人が時折感じる、或いはその中に取り込まれてもいる「違和感としての風景」としての「スマートフォン」に繋がってくる奇妙な感覚と言えるでしょう。

手っ取り早く解釈するなら、レイ・ブラッドベリが描いたディストピアを構成するためのメディアとしての機械は今小生が手にしている(パソコンが広げられないため)或いは、いまあなたが手にしている、対角線で7インチかそこらの大きさの小さな板、今どき電車内では大勢の人がそぞろにスマートフォンに向かい、画面の中の「友人(現実のものかそうでないかはここでは問題にしない)」との交流に勤しみ、夜道を一人ごちながら歩いているように見えるハンズフリーの女性、いままさにゲームをするために車内で座り込んでいる学生、何に集中しているのかは分からないが画面にかぶりつきになって、最早周囲の様子など気にならない、という様子での歩きスマホの有象無象の人々、そして、コンテクストを切り離した形でのイベント・日常の一コマとしてのInstagramとそれに付随するストーリー(やや偏見、こじつけ感が強い)、最後に「スマホ育児」の台頭、既にレイ・ブラッドベリのディストピアはスマートフォンの爆発的普及とそれに伴って起きた人々の交遊関係や社会体制の変動といった諸問題により、実現まであと1歩のところまで来ているようにすら感じられます。

まぁ、人間の知性は4000 -6000年前にピークを迎えて、そこから下がっていってるなんて説もありますからね、そういった思考停止に関してはますます拍車がかかっているに過ぎないのかもしれません。

では、この状況を打開するには……というところできっちりと解答を提案しているのがこの小説のもう1つの偉大な部分である。「本を読め」ということである、本を読むことによって無数の価値観、経験、思想、物語、人生に触れることこそ、この思考停止の時代の到来の中でその流れに抗うために出来る唯一のことなのだ。本を読まないにしても、きちんと自分自身でものを考えろ、そういうことが言われているのです。

小生自身、どうしてもロードバイクのことが気にかかって、或いは2ちゃんねるが気になってスマホをいじることが多い身であるため、大変、この警句は痛かった。

嗚呼確かにそうだ、今後はスマホとのつきあい方を今以上に見直す必要がある(この文章自体がその「スマホ」による産物であるところが最高にアイロニーを感じるポイント、創作活動、自身の思考を可視化するためだからいいの! と言えば言い訳か……)と思わせてくれました。
というわけで、皆さんもスマホとのつきあい方を考える上で、そして、今後より良く生きる上で重要なことをこの小説を端緒に色々と思案してみてはいかがでしょうか、それでは。

なんやこれもうロードバイクブログちゃうやんけ!! って意見が聞こえてきそうですが、まぁ、仕方ない。成り行きですから。

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