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小生と安部公房『箱男』──このへんないきものはまだ日本にいるのです。たぶん。──

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いやー、まったく梅雨の中休みが長すぎです。中休みは30分そこらが基本なのに、これじゃ午後まで中休みです。小生にとって梅雨は「夏に向けて心の準備をする期間」なのに……これじゃもう夏が来たのとさして変わりません。
小生の心の準備
「今年も夏が来る」「彼女はいない」「適当に遊ぶ男友達はいても女友達はいない」「どうせバイトばっかり」「今年も彼女はいない」「死ぬほど暑い」「どうせ来年も彼女はいない」「今年も夏が来る」
これの繰り返しで精神を夏に慣らします。逆に梅雨の間にこれを十分に出来ないと気が狂いそうになります。

というわけで、今回は安部公房『箱男』について

段ボールを被って遊ぶ、なんてのは誰しも一度や二度じゃなくやっていることだと思います。小生なんかは今年の春もやって遊んでいました。自分の顔写真を張り付けた広告の入った箱、印象的なのは高三の文化祭の時に作り上げた「ウキウキ覗き箱」でしょうか、下はトイレットペーパーの大箱、上は菓子かなんかの中箱で出来た男の隠れ家です。体育座りでエントリーし、大箱で身体を覆い、中箱の中には頭と上半身の一部が格納できます。完全に中に入るとただの箱になります。こいつではよく遊びました。最初は覗き目的で作った男の隠れ家だったのですがそのうち被って歩くための道具になって、そのままのカッコで野球部の友達に備品のロープでつながれて校中引き回しの刑に処されました。美人の美術の先生に写真を撮られたときは思わず股間を熱くしたっけ……。

とまぁ、このように誰しもそんな遊びをしていると思います。今回小生が読んでいたく感銘を受けたこの作品『箱男』につきましてはそんな段ボールを被って『生活』までする奇人、変人、浮浪者の友達が主人公となっています。

箱男 (新潮文庫)

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あらすじ

この箱男という作品は様々な立場や境遇を持った登場人物(箱男には限らない)達の物語がパラレルかつ二重、三重の虚構によって物語は混迷を極めながらもリニアに進行していくため、ここでは幾つかの断章について記載するに留まります。

主軸
箱男である「ぼく」の生活とそれを巡る一連の物語、箱男として生きる「ぼく」の平穏な日常を突如として乱した「空気銃の男」「看護師の娘」との不思議な関係。
挿話
「空気銃の男」である偽医者は「箱男」である「ぼく」を呼び出し、殺したことを想定してその検死の結果をまとめ始める。「供述書」の章がそれに当たる。
挿話
手製のアングルスコープを用いて隣に住んでいる女教師の放尿シーンを捉えようとするクソガキの話。
他にも色々ありますが、ここで詳しく記載してしまうとブログを読んでくださっている数少ない皆様の新しい読書体験をスポイルしかねないのでこの辺にしときます。

感想

作者である安部公房自身もこの小説を「実験的」であると述べているが、ここまで前衛的な小説は小生の読書歴の中で一度もなかった。小生の中では、まさにエポック=メイキングな作品だったのである。そして、構成も天才のそれだ。冒頭に箱男の『箱』の製作方法についての詳述があり、この時点では、中々楽しそうな遊びの一つのように見えているのだが、章を追って行くごとにそんな楽しそうだった「箱男」としての生活が少しずつ心の中でその「箱男」が質量を漸増させていく、そして、気づいたときにはその蠱惑的な世界、「箱の中」にどっぷりと「引きずり込まれている」ことに気づくのだ。その頃にはもう手遅れである。俄に箱を被りたくなる、箱を補強したくなる、箱に細工を加えたくなる。誰もが同じように感じるとは思わないが、多少なりとも読者の中にはそういった衝動に駆られる人がいるだろうということは想像に難くない。なにかしらそういう抗いがたい衝動──それは複雑なように見えて、実に単純な原初の衝動のように見える──を心の奥底から引き出してくる、そんな作用さえ感じられる。そういった意味でもこの小説は素晴らしい。

「見る」「見られる」シンメトリックな関係と恐怖

もう一つ、小生がここで述べておきたいのは「見ること」「見られること」という二つのシンメトリックな事象とその空隙に存在するエロティシズムの関係である。この小説においては箱男の限られた視界の中から「見る」ことをはじめとして、さまざまなところでこの関係が成立しており、そこには必ずエロティシズムが介在している。

箱男が手鏡を用いて看護師の娘が裸になっているのを見ながらジェラシーを感じるシーン、足の綺麗な女に見られていることを箱男が感じるシーン、クソガキが隣の家の女教師を覗こうとし、逆に裸になっているところを覗かれて達してしまうシーン、こう書くと小生は変態みたいだが、さもありなんである、致し方ない。

とかくに「見る」「見られる」の関係の中にはエロティシズムが必ず介在してくる。この小説での描かれ方は確かにそういった「性」を強調しているが、実際のところ、日頃なんの変哲もない生活を送る小生達の生活の中での視線も既にそういったエロティックな要素を胚胎しているのではないか、小生はその考えに至ったのである。人類みなエロ目線というわけだ。

意識するとしないと、私たちの視線は常に一定のところに定まるといったことはあり得ない。何故だろうか、これはまだ人類が動物だった頃の名残ではないだろうか、常に死と隣あわせの自然において、警戒するしないは死活問題である。もう一つ、人類の有する「好奇心」もこの視線のさだまらなさに一役かっている。最後に、エロ目線である、これは生殖のための目線だ。自分と離れた遺伝子を求める人間、生殖に適したオス、メスを探すための「視線」子孫繁栄のためにはその視線が必要不可欠なのだ。ここに「視線」のもつ根源的なエロさが存在している。この小説は箱の中からの小さな視界を引き合いに出しつつ、そういった大局的かつ根源的な規模を持った「視線」すらも規定するようなものだったのではないか、小生はいつも曲解が過ぎるが、他の人間と同じ批評をしてもつまらん、というのが常に根底にあってこういうことをしている。

自分自身の視点を持つこと、この大切さをつい先日辞表を提出した渡部直己教授の講義で教わった、だからこの視点と破綻ギリギリの論理は捨てるに捨てられないのである、ではでは……

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