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宇野常寛『リトル・ピープルの時代』

  • 2019年3月31日
  • 2021年8月22日
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いつもの本のご紹介、今回はいつものアレとは異なりSFでも小説でもない「評論」から一冊、宇野常寛氏の『リトル・ピープルの時代』

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こちらを紹介します。

評論家の宇野常寛氏と言えば、以前は「スッキリ!!」のコメンテーターを務めておりまして、降板になった後はお笑い偏差値32?23?のキングコングのお二人の片割れ、カジサックとかいうアレとやり合っていたので多少皆さんも知っているのではないでしょうか。

デビュー作「ゼロ年代の想像力」は非常に戦闘的な一冊で、同じく評論家の東浩紀氏の「動物化するポストモダン」の完全なカウンターパートとして上梓されていたという印象が強いものでした。「セカイ系」批判としての側面も強く、小生もいたく刺激を受けた……というか、ショックを受けました。

そうか、セカイ系は安易な事故反省によるレイプ・ファンタジーでしかなかったのか……と、当時「オタクの青春文学」としての「セカイ系」はまだ論理として駆動する! と信じていた小生は涙目でした。

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内容

2011年3月11日に起きた東日本大震災を機に、我々を取り巻く環境・社会にある物理的・精神的な「大きな力」を想像する力の欠如を感じた宇野氏が「リトル・ピープル(小説家の村上春樹氏が小説『1Q84』の中でジョージ・オーウェル『1984』のビッグ・ブラザーをオマージュして作った造語)」をタームとして現代日本を読みといていく。

一つの大きな力=ビッグ・ブラザー=父権性の象徴(大きな父)と乱立する小さな力=リトル・ピープル=矮小化された父権性(小さな父)が軸となっている。

第一章は村上春樹小説の持つ批評性とその射程の限界について述べ、その現状を打破するための「大きな力に対する想像力」をポップ・カルチャーに求める。

第二章においてはポップ・カルチャー(ウルトラマン、ロボットアニメ)の視点から社会に存在する「大きな力」から「小さな力」への変化とその問題を論じる。

第三章ではここまでの内容を総括し、これからの時代の想像力は「拡張現実」的且つデータベース的な思考力によって開けるのではないかと結論付けて幕を閉じる。

感想

やや「丸くなった」という印象、前作「ゼロ年代の想像力」ではやはり東浩紀という明確な「敵」の想定があったからこその舌鋒の鋭さ、一気に深くまで斬り込んでいくような部分は薄れている。かといって「腑抜けになった」訳ではなく、柔軟さが増した印象がある。前作では真っ向から対立していた東浩紀氏の「データベース」理論を援用して持論を展開していたのには驚かされた。全面に渡って批判を展開するのではなく、必要な部分は援用し、自分が違う、足りないと思う部分は訂正、補足しながらさらに深くまで潜っていく、そんな姿勢が印象的だった。

ついでに言うと、この本は「仮面ライダー」をもう一度観たくなる本だとも言えます。平成仮面ライダーの批評性、特に「龍騎」以降の仮面ライダーに見られるものがかなり詳細に記述されていた。「アギト」の時点でアギトである男「アギト」、アギトになりたかった男「G3」、アギトになってしまった男「ギルス」、アギトであろうとする男「アナザーアギト」と四者四様の「力」「正義」の認識が存在しましたが、「龍騎」においては完全にそれぞれの信じる「正義」が異なり、13通りの正義=小さな力=リトル・ピープルが激突する状況の象徴性など、当時ただ「仮面ライダー」として「龍騎」を観ていた自分としては感慨深い、というかただただ驚嘆を禁じ得ない、という感じでした。

続く「ファイズ」ではモノクロの身体=唯一無二ではない自分=オルフェノクが色・記号を持つ身体=唯一無二の自分=ファイズギアを求めて争う、というポストモダン的な状況を的確に描写しているなど、更なる批評性の高まりを感じさせます。

そして「ブレイド」を挟んでの「響鬼」では直接的に「父」の問題が顕在化……「カブト」はいいとして「電王」でのキャラクターの問題への再回帰、などなど……とにかくこの「仮面ライダー」というシリーズのもつ「想像力」の幅の広さ、世間の「鏡」としての市場に適応するなかでの進化には相応の価値が付加されます。

個人的にはもう少し「ロボットアニメ」に突っ込んで欲しかったところではあります。大きな父=歴史性が駆動させていた父の象徴、屹立する巨大な男根(字面だけだとフロイトの汎性説っぽい)としての「ロボット=大人の身体」の終了を告げる子宮としてのコックピットを持った「エヴァンゲリオン」父権制の凋落が招いたロボットの象徴性の低下によってロボットアニメ産業自体が低調気味に?ポスト・エヴァの同語反復が問題か? 

取り敢えず、今シーズンは不作でしょう。今「ガンパレード・オーケストラ」と並行して「revisions」も観てますが、というか「ガサラキ」観てたらきつくなって「revisions」にしたら出来がクソ過ぎて「ガンパレード・オーケストラ」を観てしまった、という流れですが……「エガオノダイカ」でも観てみますかね……小生、あんまり美少女美少女してるアニメは嫌いなんですよ、萌豚が集まればいいから物語そっちのけだし、キャラクターのパターン化が激しいし……

補足

これを読んでオタクは「馬鹿になっている」もとい「動物化が進行している」と感じましたね~、かつてのセカイ系の時点ではヒロインに代償を押し付け、ヒロインを喪失する、という構造の中にある「自己反省」によって安易な感傷に浸る、これを繰り返す「馬鹿さ」がありますが、昨今の「イセカイ系」とも呼ぶべき作品群においては「喪失」も「自己反省」もなくただただ記号的な「ヒロイン」の「所有」の快楽の堂々巡りに陥っていると不肖ながら小生は感じております。消費者がいかに気持ちよくなれるか、市場経済の産物として奇形化を遂げたオタクコンテンツはどこにたどり着くのでしょうか。

仮面ライダーファイズの時点では、モノクロの身体=唯一無二ではない自分=オルフェノクが色と記号を持った身体=唯一無二の自分=ファイズギアを巡って戦う、という構造は世間の「鏡」として機能していた、つまり人々はキャラクター性を獲得することでモノクロの身体から脱しようとしていた、と解釈できますが、最近の「SNS」の一部の流れの中では「映える」アイテム、場所、服、行動が一つ生まれるとそこに皆が群がる、という姿勢は記号性を獲得しようとする姿勢の停滞、それどころか、「みんなと一緒」のモノクロの身体を希求する動きにすら見えてしまいます。

今日はこの辺で、またちょっと賢ぶった話をしましょう。

──「セカイ系」を内破する──とかどうですか? アレ? ガチオタっぽい?

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